昭和50年01月05日 朝の御理解



 御理解 第71節
 「ここへは信心の稽古をしに来るのである。良く稽古をして帰れ。夜夜中、どう言う事がないとも限らぬ。おかげはわが家で受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけに行かぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来る事は出来ぬ。まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけ。」

 此処へは信心の稽古をしに来るのである。まめな時此処へ参って信心の稽古をしておけと。愈々明日から寒の入りです、寒修行が始まります。色々な稽古事、例えば柔道とか剣道とかなさる方達でもね、やっぱり此の寒修行と言うのが大事にされます。芸子さん達もあの声をするのも、この寒中に寒声をとる。今はないですけれども、昔はあのう片ノ瀬と言う所に、ずうっと料理屋街がありました。
 片ノ瀬の町はもう、殆ど料亭でした。筑後川沿いを、私はその当時、新聞配りをしておりましたから、あの時分所を毎朝通るんです。そすとあの河原にずうっと出て、その川の瀬のねあの音、それからもう三味線を弾いて声を寒声を取られる。もうそれこそ血みどろな修行です。例えばその遊芸の道ですらそうですからね。ましてや人間の本当の幸せ、いや人間私共が、あの世へ持って行くと言うか、ね。
 もう永劫私共が助かる事の為の力を受けよう、徳を受けようと言う事なのですから、もう是に修行が伴わないはずはありません。取分けね矢張り本気で修行に取り組まなければいけないと言う事です。最後にまめな時此処へ参って信心の稽古をしておけと仰る事は、ね。皆さんがそこに、どうかあるとか難儀であるとか、困っておるからというて、その信心をするけれども、本当は信心の稽古はなんでもない、平穏無事本当におかげを頂いておる時、しっかり此処へ参って来て、信心の稽古をしておけと仰る。
 如何にも神様に参るというのは、ね。悲しい時の神頼み的なものが、信心の様に思うておる人があるけれどもそこん所を、教祖ははっきり教えておられますね。病人があったり、又は子供があったりすれば、それを置いて来る訳にはいかん。また日傭取りはそう日々お参りする事も出来んと言う風に、この中にはそう言う意味の事も、此処では言っておられますけれども、ね。病人があったり子供があって参って来られんというのは、ごく稀であって本当は、ね。
 お互い信心の稽古をさせて頂いて、おかげを頂いておる。ね。参ろうと思えば参られる。ね。いわば一心発起しない。もう本当におかげばっかり頂いて、お参りも毎日せんならんと思いますけれども、こんな訳であんな訳でと言うて、訳を並べ立ててお参りがせんで良い様に、せんで良い様に言う人がある。けどもまぁそれでもね、あのお取次ぎさせて頂いておりますと、何かの機会にです、ね。
 例えば今福岡から毎日親子ご親戚の方達まで、もうお神酒が三十三本ですかなりましたからもう、丁度三十三日お参りになる訳です。お参りに来る毎朝参って来るたんべんに、一本づつお神酒が増えて行く。古川さんという此の方なんかは、もう椛目時代から言わばご縁を頂いておった方です。そしてもうその当時でも、唯お願いがある時だけ。もうお参りをしようと思えばあそこの仕事が仕事、旅館をなさっておられます。はぁもう忙しいばっかりでお参りが出来ない。
 どうですかやっぱり旅館をしておられるけれども、愈々御主人がさぁもう医者にも見離された、どうとこう言う事になってまいりましたら、それこそ毎日毎日しかも親子で参って来て、ね。しかも今毎日三十何本づつですから、あはっ何百本になりますかね三十三日ね。そういう大変な言うならば修行に取り組んでです。しかもほんなら参られなかった忙しかったといっておる方が、本気で一心に信心に打ち込んでおられますからね。参られないというのは、本当にそれは神様に対する言い訳です。ね。
 だからそれはそれでも良いです。けれども今はです、ほんなら合楽に御神縁を頂いておる方達がほんなら、ね。寒中の修行とか、暑い盛りに修行させて貰う、その修行期間ぐらい一つ本気で信心の稽古をさせて頂いたらどうでしょうかね。本気で信心の稽古をする。昨日も雨が降るから風が吹くから、偉いと思うてはならん。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと言う事で、取分け唯そこの長い御理解ですけれども、其処の所だけを頂いてそこを対象にして御理解を頂きました。御理解頂終わってからです。
 田中さん達がああして親子で、親子でじゃないご夫婦でお参りになります。奥さんがあんなに身体が悪い、ね。で昨日の御理解を頂いて、此処へ出て見えてから奥さんが言われるとですもん。「先生私はもう、自分がおかげ頂く事ばっかりお願いしよりますが、こげなこっじゃいけませんでしょうか」ち言うて。「いかん事があるもんですか、あぁた神様はね、それこそ牛馬の事に至るまでと仰る。
 けれどもその実意を持って願えと仰るのだから」ね。もうあらゆる難儀の事、ね。それは金銭の事でも良い、人間関係の事でも良い体の事でも良い。難儀そこに難儀を感ずるその事をです、ね。唯一心にとだけではなくて実意を持って願えと仰る。矢張りそんな事はないですよ、一心に願わにゃいけませんよと言うて、あのお答えした事で御座いましたけれども、その後にです私は又その事をお願いしよりました。そしたら牡丹餅がね皿についでこうここの応接台の様な物の上においてある所を頂いた。
 私はね、信心の稽古と言う事はね。一心に皆さんこうやって毎日お参りになって見える。もうその事が信心の稽古なんです。一心に自分の痛いなら痛い、痒いなら痒いと言う事を願われる。その事を一生懸命御祈念をする。その御祈念がその事が信心の稽古なんです。私は信心の稽古と言う事に何か幅広いものを、昨日その田中さんの取次ぎをさせて頂いて感じました。何か昨日もそのおかげの事なんか問題じゃない。
 痛い痒いの事なんか問題じゃない。唯信心を分かれと言う風に言われるとです、何かその痛い痒いのことなんか願われん様にあるけれども、決してそうじゃない。ね。こう日々お参りをして来る事、その事が信心の稽古なんです。又一生懸命にほんなら大祓いなら大祓いの天津祝詞を奏上させて頂く、その事は信心の稽古なんだ。ね。だから矢張り一週間も参ったら、祝詞は覚えてしまう位に、稽古をするならしなきゃいけん。
 拝むでも十分拝みよるとを三十分拝まにゃおられない位に、その祈ると言う事の稽古をさせて貰う事なんです。ね。私はそのこうお膳の上に、牡丹餅があるのを頂いて、そう感じました。ははぁ世間では、唯其の自分の都合のように、言うなら信心はせずして、おかげだけお願いしますと言う様な、是はね言うなら、棚から牡丹餅だと言う事です、ね。棚から牡丹餅が落ちて来るを待つ様な。はぁもう先生お参りしようと思いよりますけれども、もう、お参りは中々出来ません。
 そればってんお願いだけはどうぞしといて下さいというのが、是は棚から牡丹餅を、落ちて来るのを待つ様なです。それでも棚から牡丹餅の落ちる様なおかげも、やっぱありますよ。ね。それを此処では奇跡という。ね。信心の稽古をさせて頂ながらです、医者の助からん病人が助かるとか、思い掛けない不思議なおかげを頂くと言う事は、もう是は奇跡じゃないです。信心をしておるから頂くのですから。
五と五と足したから十になったのです。けれどもね信心はおろそかにして、唯どうぞおかげだけを願うのが、是はそして現れるおかげが奇跡だと思うです。今合楽ではそれが多いです。ね。例えば近所にもう、医者が見離したような病人さんがおる。そすとその此処に信心をしておる人達が、その方の事を一生懸命願うてあげなさる。本人な願うて貰うとるかも知らない位名事。それでも奇跡的に助かるのはそういうもんでしょうね。信心も大した事は出来ずに、言わばおかげを受けるというのはです。
 是を奇跡というのだと思うです。ね。こら一生懸命信心させて頂いて、そらもう本当に不思議な不思議なおかげを受けます。奇跡的なおかげと申します。是は確かに奇跡的なおかげであって、本当は信心して霊験、ね。所謂おかげのない時こそ、不思議な事じゃと仰るのですから、信心して霊験が現れると言う事は、当たり前の事なんだ。今日豊さんが言われる、先生私はおかげの事ばっかり願いよるが、私どんが様な信心じゃいかんだろうとこう言われる。そうじゃない一生懸命、あの身体でです、ね。
 しかも御主人がそれをもう、手とり足取りする様にして、もう是だけでも修行です。そしてほんならこの朝早うから、お参りをして来られるのですから、もうそれはまさしく信心の稽古です。そして祝詞も覚えました、ね。、御祈念も一心不乱にさせて頂くというなら、所謂信心の稽古を、もうしておられるのです。ね。所謂お膳の上に牡丹餅というのはです。そら成程、もうその牡丹餅の様なおかげではあろうけれども、棚から落ちた牡丹餅じゃない。ちゃんとお膳の上に据えてある牡丹餅なんです。ね。
 それにです本当に言うならば本当な意味においてのままになる。牡丹餅だけではない。お膳部がある、ね。例えばほんなら料亭なら料亭に参りますとです、ね。五千円の会席もあれば三千円の会席もある。千円いうならば二百円か三百円かの丼物もある。お腹が一杯になると言う事においては、変わりはないけれどもです。ね。それこそ山海の珍味を目の前に並べて頂く、私はままになると言う事が最高だと思うです。ね。
 始めは言うなら、棚から牡丹餅じゃない。甘いち言うかね、唯牡丹餅的なおかげからでも良い。信心の稽古をさせて頂いて行く内にです、ね。それこそ最高の膳部を前にして三度三度と頂ける様なというか、本当な意味においてのままになるおかげ。言うなら限りないおかげが頂けれる信心。それをお徳と言うんです。お徳と言うおかげです。それはあの世にも持って行け、この世にも残しておける。しかもそれこそ自分が飲みたい物が、もう目の前に現れて来る。
 自分が食べたい物がもう目の前に現れて来る。ね。食べ物だけの事じゃない。人間の幸せの条件の全てがね足ろうて来る。そういうおかげを目指させて貰わなければならない。信心のそれぞれの、その段階においてなのです。ね。先日からも頂きます様に、金光大神覚えの中にある。言うなら心甚というのは、ね。心甚だしと教祖様は書いておられる。心甚だしく言うならば神へ向う。精進。ね。舟がある櫓がある、ね。人間が乗らなければ、その舟は舟としての用にならない。
 如何に天地の親神様がおられてもです、拝む氏子がおらなかったら、舟があるだけで、ね。櫓があるだけで、乗り手のない舟の様な物なんです。私共が拝んでこそ、私共が縋ってこそ神様は、神様としての働きを現しなさる事が出来る。ね。そこで一生懸命の精進をする。櫓の操り方櫓のこぎ方を、一生懸命覚えて、そして次に信心である。ね。本当に初めから、神様の実在をです、確信して信心する人はありません。
 それこそ溺れる者は藁をも掴むという思いである、やらないやら解らない自分の心である、やらないやら解らない、姿もなからなければ形もない声もない。疑えば限りが無い程しの神様へ向って、願う縋る事に成って来ると、そこに不思議な不思議な、言うならおかげが現れて来る。いやぁ是こそが、神様のおかげと言う物だろうかと言う事が解って来る所から、言うなら少しづつ、神様を信ずる事が出来て来る。そういうおかげが積み重ねられて行く内にです。所謂確信が生まれて来る。
 信心である。信ずる心である。愈々信ずる心。そこに言うならば安心の生活が生まれて来る。次にひらがなで書いておられる、しんじんである。も其処迄行って頂ますと、信心と言うのは見易い物、それこそひらがなで書く様に見易い。ね。言うなら盲信心が楽しゅうなる、嬉しゅうなる有難うなる。ね。朝のお参りがもうこよない楽しい、言わば朝参りなら朝参りが出来なければです。もうその日一日がね、暮らされぬというくらいな、信心が言わば、切っても切れぬものになってくる。
 自分の身体と同じになってくる。自動車の運転をする人が、その自動車が、自分の手足の様に動くように、もう神様と共に動けれる様になる。信心は愈々見易い物になって来る。ね。そう言う所まで、お互いの信心が高められなければならない。ね。だから信心の稽古というてもです。ね。昨日申しました様な、ある意味での高度な所を目指してからの信心でナからなければならんと言う事ではない。けれども何時までも、同じであってはならないと言う事である。
 小学校卒業したら中学校、中学を卒業したら高校と言う様にです。進んでいかなければいけない。愈々ね明日からの寒修行に、それぞれの信心の程度、段階においてです。それぞれにです一つ本気で、今度の寒修行の間に、ね。天津祝詞、大祓いだけはいっちょ覚えさせて貰おうと。是も信心の稽古なんだ。ね。言うならば愈々信心の、教祖の神様の御教えの、言うならば奥換えとでも申しましょうか、その深さ広さに触れて行く事の有難い、尊い信心を目指させて頂くと言う事も、矢張り稽古なんです。
 此処には信心の稽古に来る所なんです。ね。そしてその稽古の言うならば、その対象になるのが、今願わなければならない事。言うならば痛いなら痛い、痒いなら痒いと言う事を通して、信心の稽古をするのである。だからもう結局、明日から行われる所の寒修行と云う事は、信心の稽古なんです。だから幼稚園もおってよし、大学生もおって良い訳なのです、ね。ですから言うならば、家族の中にまだ信心のない人達もあります、薄い人もあります。家内も参れる子供も参れる。
 それぞれの信心の段階においての、信心の稽古を、本気で一月間させて頂こうじゃないかと言う様なです。働きが銘々の家庭に生まれて来なければならないと思う。まめな時此処へ参って信心の稽古をしておけと、最後に結んでおられる。ね。お互いが先ず今健康であるならばです、ね。その健康という言うならば、おかげだけででもお参りが出来るという事になる。それだけでも、お礼の信心が出来なければならない。ね。寝とる者が起き出して、ね。どうかあるものがと言う事じゃない。
 そういう言うならば、条件が足ろうておる時、お参りするのに修行するのに修行がし良い時に、本気で修行させて頂かなければならん。寒修行を迎えて愈々本当の一つ信心の稽古。ほんなら本当の信心の稽古と言うのは高度な事と言う事だけではない。ね。お参りをするというだけでも信心の稽古。ね。祝詞を一つ覚えようと言うだけでも信心の稽古。言うならば、三十分なら三十分という間、なら、若先生が、五時からの御祈念をしますと、三十分間の御祈念がある。
 その三十分間の御祈念を充実した、言うならば祈りで終わらせて貰う。ね。それでもまだ、もし足らんならば、私の御祈念の、四時の御祈念に出て来てみるが良い。そして一時間の、みっちりした御祈念の稽古を本気でなさる。だからそれぞれの、誰が真似と言う事じゃない。それぞれの段階においてである。ね。此処へは信心の稽古に来る所です。愈々一つ本気でね此処へ信心の稽古に、言わば寒修行の間だけでも、その信心の稽古と言う事を重点においての、ね。寒修行に取り組みたいと思います。
    どうぞ。おかげを頂かれなますように。